目次
グスクとは
沖縄地方に存在する古代の遺跡のこと。城郭は琉球石灰岩が積み上げられている。本土で言う所の「城」と表示されるが、その起源には様々な説があり、一概に防御拠点を目的とした城とは云えない。
なぜなら、波上宮の座する「岩山」が「ハナグスク」と呼ばれている事でもわかる。
グスクとは「城」であるという説の他に、「聖域」「集落」「有力者の居城」とする説もあり、古くから議論されている。
■グスクを廻る様々な説明
グスクは按司と呼ばれる有力者の根城で、琉球に200以上もあったと言われる要塞です。 世界遺産 今帰仁城へ行こう!
グスクとは、 古琉球(ぐすく)時代の遺跡のことで、一般的には城(しろ)と訳されている。しかし、グスクの領域は全てが城ではなく、御嶽(うたき=聖地、拝所)の領域として拝所があり、多くの参拝者が訪れていた。heiwa-ga-ichiban
「グスク」とは、沖縄で「城郭」をさす言葉である。藤井戦国史
グスクの領域は全てが城ではなく、御嶽(うたき=聖地、拝所)の領域として拝所があり、多くの参拝者が訪れていたようです。琉球王国のグスク及び関連遺産群|日本の世界遺産.com
グスクは「城」という字をあてて表現されます。世界遺産での登録名も「今帰仁城跡」や「座喜味城跡」などのように使われています。「城」という字を使ってはいますが、同じ世界遺産の姫路城などのような、私たちが想像する「城」とは全く違うものです。沖縄独自の歴史が、かいま見れるのが「グスク」だということです。琉球王国のグスク及び関連遺産群|日本の世界遺産.com
■グスク時代のはじまり
沖縄でグスク時代といえば、貝塚時代が終り、12世紀が過ぎると農耕社会が始まります。この時代がグスク時代と呼ばれるもので、琉球各地の豪族が、お互いが覇者としての権力を得ようとあらそうようになりました。こうしたことが繰り返されるうちに、沖縄本土を軸として、大きな豪族の勢力が作られていきます。各地の豪族達は、自分たちの勢力の維持と、たたかいに備えて城塞を築きました。これがグスクのはじまりです。琉球王国のグスク及び関連遺産群 - 【日本世界遺産めぐり】
世界遺産に登録された5つのグスク
■グスクの公式名称
沖縄にある多くのグスク(城)及び遺跡の中から、5つのグスク(首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡)と、その関連遺産の4つの遺物(園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)が第24回世界遺産委員会会議で2000年(平成12年)に世界遺産登録されました。これらの公式名称は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」といいます。沖縄観光チャンネル
世界遺産登録名 | 築城年 (推定) | 廃城年 (推定) | 廃城理由 | 登録面積(ha) |
---|---|---|---|---|
首里城跡(シュリジョウアト) | 1400年 | 1879年 | 琉球処分 | 7.3 |
中城城跡(ナカグスクジョウアト) | 1400年 | 1458年 | 王府軍の攻撃 | 12.3 |
座喜味城跡(ザキミジョウアト) | 1416年-1422年 | 1501-1600年 | 城主の移城 | 4.4 |
勝連城跡(カツレンジョウアト) | 1201年-1400年 | 1458年 | 王府軍の攻撃 | 13.2 |
今帰仁城後(ナキジンジョウアト) | 1300年 | 1665年 | 中山軍の攻撃 | 7.9 |
■グスクが世界遺産に認められた4つの理由
【琉球王国のグスク及び関連遺産群】が世界遺産に登録されたのは、以下のようなことが認められたからです。
1:登録されている資産を形作る数々の記念工作物や遺産は、中国やアジア諸国との文化や経済、政治の交流のプロセスで成り立った、琉球独自に作り出されたもので、日本では類を見ない特異性を持つ事例群であること。
2:グスク跡は、農村基盤の豪族が築いた考古学的にも非常に大切な事例群であること。現在でも崇められる存在であるということ。
3:土木や建築、造園に対して高度が技術を持っていたことが分かり、とくに「玉稜」には優れた技術が認められます。
4:数多くあるグスクの中では、信仰の対象になっているものも多く、ノロと呼ぶ女神を中心に、現在でも祭祀が行われているということ。琉球王国のグスク及び関連遺産群 - 【日本世界遺産めぐり】
1:登録されている資産を形作る数々の記念工作物や遺産は、中国やアジア諸国との文化や経済、政治の交流のプロセスで成り立った、琉球独自に作り出されたもので、日本では類を見ない特異性を持つ事例群であること。
2:グスク跡は、農村基盤の豪族が築いた考古学的にも非常に大切な事例群であること。現在でも崇められる存在であるということ。
3:土木や建築、造園に対して高度が技術を持っていたことが分かり、とくに「玉稜」には優れた技術が認められます。
4:数多くあるグスクの中では、信仰の対象になっているものも多く、ノロと呼ぶ女神を中心に、現在でも祭祀が行われているということ。琉球王国のグスク及び関連遺産群 - 【日本世界遺産めぐり】
各グスクの概要等
- ■今帰仁城(なきじんじょう)
- 標高100メートルの古期石灰岩丘陵に築かれた三山鼎立時の北山王統の居城です。築城は13世紀末頃に始まり、14世紀前半~15世紀初期にほぼ現在の形に整備されたとされます。グスクは6つの郭から成り、総長1500メートルにも及ぶ城壁は、地形を巧みに利用しながら野面積みで屏風状に築かれています。 城内には、基壇構築による建物遺構や琉球の神話と関係の深いグスクの守護神を祀った御嶽があります。難攻不落の城(グスク)でしたが、部下の謀反などもあり、1416年に首里城を拠点とする中山軍によって滅ぼされました。落城後は、王府から派遣された北山監守の居城となり、監守制度は1665年まで続きました。文化遺産オンライン(文化庁)
今帰仁城は、古生期石灰岩だけを使って築かれた沖縄唯一の城で、城門の形状なども他の沖縄の城とは趣を異にする。Bali & Okinawa チャンプルー- 最大級のグスク。城主ハンアンチのとき、首里に攻められ、頑強に抵抗したが滅びました。 世界遺産 今帰仁城へ行こう!
- ■座喜味城(ざきみじょう)
- 中山軍の今帰仁城攻略に参加した有力按司の護佐丸によって15世紀前期に築かれたグスクです。国王の居城である首里城と緊密な連携を図るという防衛上の必要性から、首里城より眺望可能な丘陵上に立地し、北山が滅びた後も沖縄本島西海岸一帯に残存していた旧北山勢力を監視するという役目を担っていました。 グスクは、2つの郭からなり、城壁は琉球石灰岩を用いて屏風状に築かれています。追手門と内郭の石造拱門は、現存する沖縄最古のアーチ門の一つと称されています。グスク内に建物遺構やグスクの守護神などを祀った拝所があります。文化遺産オンライン(文化庁)
- 城主は護佐丸。築城の名手で、きれいなアーチ門が有名です。 世界遺産 今帰仁城へ行こう!
- ■中城城(なかぐすくじょう)
- 勝連城主である阿蘇和利を牽制するために、王命によって座喜味城から移ってきた護佐丸が15世紀中期に整備した城(グスク)です。琉球王国の王権が安定化していく過程で重要な役割を果たした当該グスクは6つの郭からなり、県内でも城壁が良く残る城(グスク)の一つです。 城壁は、琉球石灰岩の切石を使用し、地形を巧みに利用しながら曲線状に築かれ、櫓門や石造拱門の城門があります。1853年に来琉したアメリカのペリー艦隊の探検隊がその築城技術を高く評価したことが文献や絵画に残されています。文化遺産オンライン(文化庁)
- 護佐丸が築いたと伝えられます。護佐丸は座喜味城主でしたが、勝連城主の阿麻和利を見張るため、中城城に移ったということです。 世界遺産 今帰仁城へ行こう!
- ■勝連城(かつれんじょう)
- 琉球王国の王権の安定過程で最後まで国王に抵抗した有力按司である阿麻和利の居城です。築城は13~14世紀に遡り、眺望のきく北から西、さらに南側は険阻な断崖を呈した地形を利用して築城されています。城主の阿蘇和利は、1458年に中城城の護佐丸を滅ぼした後、王権奪取を目指して国王の居城である首里城を攻めますが、逆に滅ぼされました。 城内には建物跡、固有信仰の「火の神」を祀った聖域のほかに、最上段の郭一本丸一には玉ノミウヂ御嶽と称される円柱状に加工された霊石があり、信仰の対象となっています。文化遺産オンライン(文化庁)
- 城主の阿麻和利は、護佐丸が首里城に謀反を起こしていると伝え、護佐丸を攻め滅ぼしました。そして、阿麻和利は首里城を攻める計略でしたが、発覚し首里に滅ぼされました。 世界遺産 今帰仁城へ行こう!
- ■首里城(しゅりじょう)
- 那覇港を眼下にした丘陵上に地形を巧みに利用して築城されたグスクです。三山鼎立時には中山国王の居城で、1429年に琉球王国が成立した後は、1879年まで琉球王国の居城として王国の政治・経済・文化の中心的役割を果たしました。これまでの発掘調査などの成果から、14世紀中葉から後半の築城であることが判明しています。 グスクは内郭と外郭からなり、正殿や南殿、北殿などの中心的建物群は内郭に配されています。正殿は琉球独特の宮殿建築で、戦前は国宝に指定されていましたが、第二次世界大戦で焼失し、平成4年に復元されました。正殿前の御庭は、冊封をはじめとした国の重要な儀式が行われた場所です。文化遺産オンライン(文化庁)
- 琉球国王の居城。琉球王国の外交、文化、政治の中心。琉球統一後に、建造されました。最初の城主は尚巴志王。 世界遺産 今帰仁城へ行こう!
- 琉球王国の居城として15世紀から廃藩置県まで約500年にわたり琉球王国を統治し、沖縄の政治経済・文化の中心地となっていました。同時に、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもありました。首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していました。首里城は沖縄戦を含め4度焼失しました。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなりましたが、大学移転後復元事業が推進され現在に及んでいます。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしています。首里城|那覇ナビ